〜散花抄〜


それは遥か昔の遠い記憶―――


一面の白い、雪。




その中を母の手に引かれながら歩いていた。

聴こえるのは雪を踏む足音だけ。




サク、サク、サク





歩いても歩いても白い景色は変わらない。

寒くて、足が痛くて、涙が出そうになった。



「母上・・・」



「母上・・・まだ・・・?」



何度も何度も母に問う。



「まだ、父上のところに着かないの・・・?」



「ねえ、母上・・・」



その時母はなんと答えたのか
どんな顔をしていたのか
今となっては分からない―――





      ◇       ◇        ◇





「・・・・どの、くろうどの・・・」

誰かの呼ぶ声がする。
聞きなれた美しい声。

「九郎殿!!」

夢現で聞いていた声を間近に感じて、九郎は薄目を開けた。

「あ・・・・?」

髪の長い美しい女が、自分を見下ろしている。

「風邪を召しまするぞ、九郎殿」

女は顔を近づけ、ペチペチと九郎の頬を叩いた。

「猫でもあるまいし、縁側などで寝て・・・目をお覚ましか?」

途端ハタと我に返った九郎は、
ポリポリと頬を掻きながら起き上がった。

「なんだ、静か・・・びっくりした・・・」

ボソリと言ったつもりだったが、女は聞きとがめた。

「なんです?」
「なんでもねー」

照れ隠しのように九郎は目をそらした。

(もう、顔も覚えていないというのに)

そんなことを思っていると、不意に静は言った。

「母上様の夢を見ておられたのでしょう? 九郎殿」
「・・・ええっ!? な、なんで?」

動揺する九郎に、静はあっさり言い切った。

「だって、寝言でおっしゃってましたよ。しかも、よだれを垂らしながら」
「・・・・・」
「というのは冗談ですけど。
母君――常盤御前と言えば、かつて宮中でも評判の美人と言われたお方だそうな・・・」

言いながら、静はお茶を入れて九郎に差し出した。
それを九朗はコクリと一口飲む。

「九郎殿・・・」
「ん?」
「まさか『乳離れ』していないのではあるまいな?」

途端九郎はブ〜〜ッとお茶を噴出した。

「ばっ、ばかを言うなっ!! 私をいくつだと思ってるんだ!」

慌てる九郎に静はニッコリと笑って言った。

「それはようございましたv 静は九郎殿の母君にはなれませぬ故・・・・」
「う・・・・。ば、ばかなコトを・・・」

今度は力なく抗議する九郎に、静はクスクスと笑った。

「第一、母上など・・・」
「え・・?」
「・・・いや、なんでもない」

不意に九郎は言葉を切った。
と同時に苦い記憶が蘇る。



(そうだ、第一母上が、私の母上であったのは遠い昔のこと・・・)



九郎が物心つく頃には父義朝は敗戦の将としてすでに亡く、
後ろ盾のない母子は強大な敵の前にさらされていた。
母常盤御前はなすすべもなく敵の妾になり、九郎たちは引き離された。
その後しばらく九郎は寺に預けられたが、口さがない噂は幼い九郎を苦しめた。



「聞いたか?
あの常盤御前が清盛殿の御子をみごもったそうな・・・
清盛殿は骨抜きにされておるわ」
「それはそれは・・・噂では清盛殿の方が御前を所望したそうだが、それでは案外御前の方が色香で惑わしたのかもしれぬな。
そうすれば、少なくとも息子の命は安泰・・・母は強しということか・・・」
「これこれ、それはあくまでも噂じゃ。
それにしても・・・源氏の御曹司とはいえ、九郎も哀れよのう・・・」



敗者の常とはいえ、この時九郎はどうしようもなく母が憎かった。



その後・・・常盤御前は清盛の寵を放れ、
大蔵卿一条長成の正妻となり子をもうけたときく。


母はようやく安住の地を得たのかもしれない。
もう、ずいぶん長い間会ってはいないけれど。

けれど・・・
今の自分には関係ないことだ。


今の自分には・・・


「静・・・・・」

九郎は静にそっと手を差し伸べた。
静は微笑んで九郎に寄り添う。

静をその手に抱きしめながら、九郎は思った。



静――お前ならどうする・・・?
お前なら――






       ◇       ◇        ◇






――平家追討後
東国では源氏の棟梁「源頼朝」が権力を握りつつあった。
武士の時代の幕開けである。


その最中、九郎義経は武勲により、後白河法皇から位を賜った。
しかし、それは朝廷の臣下となった証。
兄、頼朝の目指す武士社会とは逆行するものであり、
秩序を乱すものであった。


これを契機に「頼朝」と「義経」
二人の仲は急速に冷えていく。

しかし、それこそが、
武士の台頭を快く思わぬ法皇の意図するところであったのである。

が、時すでに遅く
法皇は義経に、兄頼朝の追討の院宣を下した。

「京」と「鎌倉」

二つの権力にはさまれ、九郎はおちてゆく。
静とともに―――






       ◇       ◇       ◇




「なんだと?! 静を置いてゆけというのか?!」


吉野山にある屋敷の一室で、九郎の驚く声が響いた。
対するのは、九郎の忠臣武蔵坊弁慶。
彼はおちついた低い声で、淡々と九郎に語った。

「何度でも言いましょう。ここから先は女人は通れませぬ。
そうでなくともこの先、女の足では必ずや足手まといになるでしょう。
御曹司。我らは御曹司に命をかけているのですぞ」
「し、しかし・・・静の身が・・・」

うろたえる九郎に、弁慶は力強く言った。

「ご心配召さるな、御曹司。
静殿はその美貌に加え、都でも屈指の白拍子。
よもや、頼朝殿も手荒に扱いますまい」

「だからっ」

弁慶の言葉に抗おうとした九郎だったが、
弁慶のその何もかも見透かしたような視線を向けられ言葉を切った。

「・・・・分かった。静に話をしよう」


そう言ったものの、本当に納得したわけではない。
ただ、命がけで自分についてきた忠臣には言えなかったのだ。

『頼朝殿も手荒には扱いますまい・・・』

弁慶はそう言ったけれど。

(だからこそ、心配なのだ)

・・・なんて言えなかった。

これから修羅の道を歩もうという男が
女を離したくない・・・なんて言えようはずもない。

そう思い、九郎は唇を噛み締めた。





「何故です?」

九郎が身を切られる思いで話を打ち明けると、
静はズイと身を乗り出し九郎に迫ってきた。

「だ、だから・・・さっきも言っただろう?! このままでは・・・」

繰り返そうとする九郎の言葉を、静は遮った。

「分かっております!静も阿呆ではありませぬ。
このまま足手まといになるのも心苦しいだけ・・・
ならば、おっしゃる通りにいたしましょう。
なれど!! 承服できないのは九郎殿のその態度」

もはや理由などどうでもいいというように、
静は涙を浮かべながら思いのたけを九郎にぶつけた。

「何故今、この時に静に真の言葉を下さらないのか・・・・!
・・・・たとえ、このまま九郎殿と会えなくなろうとも、静はそれを心の糧として、これから生きてゆきたいと・・・思っておりますのに・・・」

そういう静の肩は小さく震えていた。
九郎は思いがけず衝撃を受け、返す言葉がなかった。


「静・・・すまない・・っ」



静・・・お前は私にわがままを言えという。
だから、決してお前の前では私は強くなれない

強いのは静・・・お前だ。
いったいその強さはどこから来るのか

もしも、私が死んでしまったらお前はどうする?
白拍子の「静」・・・
また他の男に心を開くのか?


そう思いながらも
九郎はただ静を抱きしめることしかできなかった。



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